元倫理偏差値74が教えるギリシア哲学「ソクラテス」 やさしくおさらい
おはようございます。くるんちゅです。
以前のモルの記事で、はじめてコメントをいただきました。
とっても嬉しいです*^^*ありがとうございました。
お調子に乗って、高校のおさらい系の記事をもう一枚かこうとおもいます。あたまのリハビリ、リハビリ!です。
それではどうぞ^^
ギリシア哲学って、なに?
ギリシア哲学は、
『古代ギリシャではじまった、知ることへの純粋な興味から生まれた、自然の探求(科学など)を含む、知の探求行為』
というと、かなり近いかもしれませんね。
ちょっと難しいですね。
もうちょっと簡単に説明すると、「教えられるまま学習する」でも、「いやいやガリ勉する」でもなく、「知りたくて知りたくて自分からお勉強する」というイメージです。
当時、奴隷などに日常の仕事をみんなやらせてひまだったギリシアのひとたちは、いろいろ考える事にはまりだし、やがて「万物の根源(アルケーといいます)とは何か?」という、問いに悩まされていきました。そう、アルケーへの純粋な興味からくる知の探求、です。
いろんなひとからいろんな意見がとびだしました。「万物の根源は水である(タレス)」からはじまり、「万物の根源は火である(ヘラクレイトス)」、「万物の根源は原子(いまの原子とはほんのちょっとちがう概念ですが近いです)である(デモクリトス)」「万物の根源は数である(かの有名なピタゴラス!)」などなど…
みんなで意見を飛ばし、それが否定され、また考え…。これがギリシア哲学のはじまりです。めっちゃ、純粋に知を愛していますね!
やがて、世の中の興味の対象が、自然の成り立ちから人生をよりよく生きるには、という問いにうつってゆきます。
そんななか注目されたのが、ソフィストというひとたちですね。彼らはうまい理屈でなんでもズバッと答えを「教えて」くれます。だいたいのひとは、上手な生き方についての本当の答えがあったとしたら知りたいですね。だから、知識をもっていてズバッと答えてくれるソフィストたちはみんなの支持を得ました。高いお金はとるけどね!
しかし、ソフィストたちのやっていることは悪い言いかたをすれば、理屈でいいくるめることで、知への純粋な興味からくる知の探求=哲学、とはちょっとちがっているように思えますね。純粋に知を探求していない。
そんな時代、偉大な哲学者ソクラテスがいよいよ登場します。
当時のギリシアでデルフォイの神殿の神託といえば、 人間に運命を説いてくれる!この神託にすべてを委ねたらうまくいく!と信じられていた超スゴイものでした。
そのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ。」という有名な銘が掲げられていました。ひとびとはこれを「人間は身の程を知るべきで神になろうとなんかしちゃいけない」という意味でとらえていました。しかし、ひとりだけこの銘をちがう意味でとらえたひとがいました。ソクラテスです。
ソクラテスはとんでもなくきもめんだったそうで、50になるまで奥さんに恵まれず、やっと結婚したクサンチッペという奥さんも、後世に名を残す悪妻だったそうです。だけど、こころは過去現在を通じて、彼ほどすばらしいひとはいないというほど美しいひとでした。
対話術
ソクラテスのスタイルは斬新でした。まず、ひとのおはなしを聞きます。わたしはあなたから学びたいのです、という姿勢で。そして、質問をなげかけます。しかし、じぶんは知らんぷりを決め込んで、話し続ける相手を「じぶんはまちがっていると認めざるを得なくなる」という袋小路に追い込むように会話をリードしたんですね。
彼はこのやりかたを助産術にたとえています。これは、彼のお母さんが助産師さんだったことに由来している、ともいわれています。
ソクラテスは人々を袋小路に追い込んだだけではありません。助産師のように、「自分は何も知らないという認識」を生み出す手伝いをしたのです。
またソクラテスは、デルフォイにて「ソクラテス以上の賢者はいない。」という神託を受け、その意味を探求しています。
さきほど、デルフォイの神託の項目で、「ソクラテスはひとりだけデルフォイの銘を別の意味で捉えた」と述べましたね。
ソクラテスはこのことば(汝自身を知れ)を、「ソフィストたちやみんなは利口ぶっているけれど、ほんとうのことなんか何もしらない、自分がなにもしらないということを知ることから本当の知がはじまる」とし、そしてこのことばを標語としたことで有名です。
そしてこれを、「無知の知」とよびます。
そして「自分が何も知らないということを知っているという点で、自分は、ただ利口ぶっているソフィストや街のみんなより賢いのではないか」という結論に思い至ります。これが彼の「ソクラテス以上の賢者はいない。」という神託の意味を探求した末の結論ですね。
ダイモニオンの声
ソクラテスは、自身を「アテナイ(アテネ)という名のぐずなロバを目覚めさせるために脇腹を刺すアブ」にたとえています。
みなさんは、アブをみたらどうしますか。刺されるのは嫌なので、逃げたりたたいたりしますね。
そうです。ソクラテスもこのアブのようにアテナイできらわれものでした。だって、ソクラテスと話すとほんとうはみんな自分が何も知らなくて間違っている、と認めざるを得なくなるから。知りたくなかった「ほんとうのこと」を認めざるを得なくなるから。
しかしソクラテスはただたんにみんなを悩ませ恥をかかせるためにアブとなって刺しまくったわけではなかったのです。
かれはいつも、「心の中にダイモニオン(鬼神)の声が聞こえる」と言っていました。そして、その声に突き動かされアブとなってアテナイの人々を刺しまくり、知ろうとする欲求にしたがって行動すること(=哲学すること)こそが「善く生きること」とし、無知の知に目覚めさせていったのです。
そしてついにはそのために命を落とすことになるのです。
処刑
紀元前399年、ソクラテスは「若者を堕落させ、国家が認める神々を信仰しない」罪で訴えられます。
有罪でした。
恩赦を求めることはできたのです。逃げることはできたのです。
しかし、そんなことをしたらソクラテスはソクラテスではなくなってしまいます。
ソクラテスの真理は、ただ生きるのではなく、善く生きることです。かれにとって善く生きるとは、無知の知を自覚し、純粋なきもちで哲学し続けることです。
そして彼は、その真理を最後の最期まで貫き通し、「悪法もまた法なり。」と判決を受け入れ、毒人参の杯をあおって死んでいったのです。
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ソクラテスの生き様です。
いかがでしたか。かなり長くなってしまいましたね(;;)
まとまりがないので、また修正するかもしれません。
今日は、とりあえずここまでで!(^^)ノシ