けんか、そして仲なおり(統合失調症の病識について)
こんばんは、くるんちゅです。
更新が止まってしまい、もうしわけありません。
しばらくちょうしを崩し気味だったのと、だんなさんとけんか?をして一晩実家にかえってしまっていました。
わたしは実家との関係があまりよくなく、けんかが理由で実家に帰ったことはいままで一度もありませんでしたが、今回は、とくべつです。
わたしは、近頃だんなさんがかまってくれない、という不満をためていました。
常にパソコンに向かいつづけていてちょっとでも話しかけると嫌がる、夜わたしの作ったごはんをたべてくれなくなった、わたしに全く興味がないような言動をする、わたしが存在しているだけでイライラしたしぐさを見せる、などなど…
お気づきでしょうか。この不満がやや病的であることに。
確かに世の中にこのような言動をするモラハラ夫もいるかもしれませんが、「常に」パソコンに向かい続けてその間じゅう「ちょっとでも」話しかけるとすべて嫌がる、ということは考えにくいですし、「全く興味のない」「存在だけでイライラする」人間と4年もくらし続けるでしょうか。
もしくは、興味が「いままで」あったとしても「突然」存在だけでイライラしだしたり、ということがあるでしょうか。
これは、誇大妄想の入り混じった被害妄想だとわたしは判断しました。
そして、この症状がすこしでも拡大しないうちに鎮めようと、妄想の対象(だんなさん)からすこし離れて実家に帰ることにしたのです。
なぜそのような対応ができたか?それはわたしに病識があるからです。
病識がある、というのは、自分が病気であるということを自覚しているということです。
そこで、今回は、この「病識」についておはなししたいと思います。
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病識をもつことによるメリット
さきほど、「病識とは自分が病気であることを自覚しているということ」というおはなしをしました。
自覚していれば、自分の病気について調べます。そもそも自分が病気であることがわからない人は、病気についてしらべようとすることはありません。
自分の病気について調べて知識を得れば、自分のなにが病的かがわかります。それがわかれば「ここが病的だけど、どうすればいいんだろう?」と対策を考えることができます。
対策を考えれば、いろいろな物事やトラブルの対応もすこしスムーズにいくようになります。
それに、ちゃんとおくすりを自分からのんで、体調の管理もしやすくなります。
つまり、病気である自分とうまくつきあえるようになるのです。
あるのとないのではおおちがい、そもそもスタート地点から、ちがうのです。
病識がない人の心理
病識がない人は「自分は病気ではないのにまわりが変な目で見る…いやだ」という不快感を少なからずもっています。
「なんとなく調子がわるいけど、病気であるはずがない」と、自分を信じさせようとすることもあります。やはりその根っこにあるのは「不快感」です。
「病気じゃないのに変な目で見られる、病気じゃないのにぐあいがわるい」というのは、なんともいえない不快感があります。
本人はぐあいがわるいことを何となく気づいていても、プライドなどから口に出さないこともあります。その状態もなかなかつらいものがあります。
つまり、病識がない状態はおおくのばあい本人にとって不愉快なのです。(ときどき朗らかなかたもいらっしゃいますが。)
病識をもつ、もたせるには
病識をもつことによるメリットと、病識がないことによる不快感のおはなしをしました。では病識をもつ、または統合失調症の家族などに病識を持たせるには、どんなアプローチをしていけばよいのでしょうか。
・当事者が病識を持ちたいばあい
病識をもちたいとおっしゃるかたはおそらく「病気だって診断されたけど、なにが病的かわからない」というかたがおおいとおもいます。
病識は、くすりが効いてくると自然にでてきて「あのときはへんだったな」と思えることがほとんどです。ちょっと「ほっ」ですね。
ですが、よくなってきたあとも妄想や独語など、ちょいちょいと病的な部分が顔をだすこともおおいです。
そういう場合には、信頼できるひと(主治医や家族や友人など)に病的な部分を聞いて、指摘してもらい「質」と「量」を冷静にかんがえなおしてみる、という方法をおすすめします。
まず、「質」ですが、たとえば妄想を例に挙げてみると、「天井に人が歩いている」という妄想があったとします。これは質的に異常な妄想、ということはおわかりですね。
「量」については、たとえば幻聴を例に挙げてみると、「24時間壁をたたき続けている音がする」というのは量的に異常な幻聴、ということです。
ふだんは気づきにくいことでも、指摘してもらったら「量」と「質」という観点からワンクッションおいて、かんがえなおしてみる、ということです。
この訓練を積めば、指摘してもらわなくても、ワンクッションおかなくてもだいたいなにがおかしいのかわかるようになってきます。
「おくすり」と「ワンクッション」、があいことばです。
・患者さんに病識を持たせたい場合
これはとても難しい問題ですが、当事者の意見を述べますと、「まず不快な気持ちに同意してほしい」というのがあります。
病識を持たせるために「上から目線で叱る」という行為はやってしまいがちですが、本人の気持ちになって考えてみましょう。
「病気じゃないのにおかしいなんていわないで、つらいのがわたしがおかしいからなんていわないで、なにも悪いことしてないのになんでそんなに頭ごなしにくすり飲めっていうの、ひどい」ということになります。
ここで必要になるのが、「なにがつらいのかおしえて、うんうん、つらかったね、あなたが悪いんじゃなくて病気のせいでつらいんだよ、病気をやっつけるためにくすりのんでいっしょにがんばろうね」というようなスタンスで接することです。不快感にアプローチするのです。
もし面倒でも、ことを円滑にするための遠回り、だとおもって、ちょっと頑張ってみてください。
北風と太陽のように、です^^
そのうち、患者さんはこころを開いてくれるはずです。
「病識のもちすぎ」にも問題が
さきほど、「病識があるのとないのではおおちがい」といいましたが、病識がありすぎるのも問題です。
というか、「病識のもちすぎ」と表現しましたが、正確には自分が病気だと自覚しすぎることからうつ状態になったり、なにもかも病気のせいにしすぎたりなど、そこから発展する弊害が問題だ、といいたいのです。
適度に病識を持つには
病識をもつのはよいことだといいましたが、病識を持ちすぎることによる弊害も問題だ、と書きました。
では、ちょうどよく病識をもつにはどうしたらよいか、といいますと、「正しい知識を持って病気を向き合う」というのがわたしの経験上、よいです。
病識を持ち始めのころは悪い情報ばかりに惑わされ不安になることがありますが、「データはデータ、自分は自分、自分の病気は自分とまわりの環境次第」という認識をもつことを心がけましょう。
なかなかそうは思えませんが、何度も心の中でつぶやいてみましょう。
主治医や専門職のかたに積極的に質問してみるのもあり、です。
正しい知識をもてば、「どこまでが病気で、どこまでが正常か」というラインが引きやすくなります。そして、悪い情報に惑わされることも少なくなります。
情報を収集するのは、ひどい落ち込みから立ち直ってからがよいでしょう。
そのほうが冷静な判断や思考がしやすくなるからです。健康なかたでも、同じですね^^
※なぜ病識がなくなるか、については、医学的なおはなしになりますので、ここでは割愛します。
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病識について、なが〜く書きましたが、最初の、わたしとだんなさんのけんかのおはなしに戻します。
その後、だんなさんにあたりちらしてしまって迷惑をかけないように、一旦実家にもどってくすりを飲んで症状を鎮めていたわたしは、だんなさんからの連絡にこたえる形で話し合いをはじめることになりました。
わたしは自分の意見をできるかぎり冷静に述べてしっかり話し合おう、とおもいました。
ですが、だんなさんはこういったのです。
ちかごろ冷たくてごめんね、いっしょにおいしい晩御飯たべて仲直りしようとおもっておいしいステーキ買ってきたのにきみがいなくなっていて寂しい、と。
わたしは、だんなさんをおいていってしまったことを反省し、だんなさんはちかごろの態度を反省し、ふたりでどんまいどんまい、しました。
おうちにかえったわたしを、だんなさんはあたたかく迎えてくれました。
そして、だんなさんがかってきてくれたステーキをわたしが焼き、ふたりでたべました。
ふたりでもういちどなかよく暮らすことは、ちっともむずかしいことではありませんでした(*^^*)