重度の統合失調症患者が見た世界
こんばんは、くるんちゅです。
ちかごろ、アクセス数などが伸びてきて、すこし病気らしい記事が書きにくくなってきた、とわたしは感じていました。
しかし、「統合失調症の世界を多くの人に知ってもらう」という当初の目標を達成するための土台ができた、ということなのではないかとも考えられます。
ですので、勇気を出して、エイ!と、このインパクトのある記事を、あえて書きました。
途中、おそろしい文章がでてきたり、刺激の強い内容となっておりますので、読まれる際はご注意くださいませ。
では、どうぞ。
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わたしが発狂しはじめた少女時代のことはすでに記事にまとめましたが、一番狂っていた時は19〜20歳の頃です。
この少女時代の記事については、たくさんの反響をいただきました。
ほんとうに公開に勇気の必要な記事でしたので、うれしかったです、ありがとうございました。
なので、今回は「狂気」の本質により迫る記事を書いてみたいと思います。
(上の2つの記事の続編と思っていただいても、支障はございません。)
「病気が憎い」
18歳の時、わたしは大学に入学しましたが、その精神は徐々に統合失調症に蝕まれていきました。
強い不安感から体は硬直し、妄想、幻覚、幻聴でもはや現実をほとんど認識できなくなってゆき、些細なことでも精神が崩壊するような感覚がつよくなってゆきました。
そして薬はどんどん増えついに極量までいきましたが、それでも効果はまったくあらわれず、悪化の一途をたどりました。
しかし、こんな状態でもわたしは大学に通おうとしました。
叶わなかった中学受験、行けなかった普通科の高校。行けなかった第一志望の大学。低学歴、なまけものと詰られた日々。
どんなに努力しても夢が叶わないのは、努力がたりないせいだと思っていました。
なので、さらに努力すれば夢が叶い、ばかにされることもなくなると、単純に信じていました。
というか、努力するほかありませんでした。1年以上休学すれば、大学も退学させられてしまうからです。
そうなったらどうする?また受験?わたし生きてるの…?
そして、わたしはついに「発狂」しました。
それは、はじめて経験する「突き上げるような狂気に支配される」感覚でした。
外部から侵入してくる圧倒的な狂気、自分の意識は糸一本でかろうじてつながっているがその「外部から侵入してくる狂気」に常にナイフを突き立てられているような感覚、とでもいえばよいでしょうか。
もはやわたしは「狂気」を自身の内側で飼うことができなくなっていました。
気がついたら運ばれた保健室をめちゃくちゃにしていた、と思います。
思います、と書いたのは、そのころわたしはもはや現実をほとんど認識できないレベルになってしまっていたからです。
わたしにとって、狂気とは内側にあるものであると同時に、外部から自分を脅かすものでした。
つまり、わたしと狂気は別物なのです。
ですが、わたしは「狂気のやったこと」の責任をずっととらされる人生を送ってきました。
狂気のせいで暗い幼少期を過ごし、一度しかない貴重な中学時代は「なかったこと」になり、高校受験、大学受験にも影を落とし、今度はやっと、やっとの努力で受かった大学までなかったことにされようとしている…
人生をほとんど奪われた。
わたしは病気を激しく憎悪するようになりました。
休学中のこと
あまりにも狂いすぎたわたしは周囲のすすめで休学することになりました。
復学する一年後に回復する見込みはあるだろうか。いや、ない。ほとんど確信していました。
ですが、わたしは努力をやめることができませんでした。
病気に死に物狂いで勝とうとしたのです。
病気に負け続けた自分が許せなかったのです。
わたしは自分の心の弱さが大嫌いでした。
自分の人生は自分自身でなんとかするしかない、誰にも頼れない、だってみんなわたしをのけものにしてきたじゃないか。
そう思っていました。
わたしの人生は、ひたすら憎しみをエネルギーにして這い上がっては叩き落される人生でした。
エネルギーである憎しみはあっても、エネルギーを運用するための「健康な身体」がないことに気がつけませんでした。いや、このあたりから徐々に気づき始めていました。
そして狂い続けたまま一年が経ち、わたしは復学しました。
復学、そしてさらなる発狂
復学したわたしを待っていたのは、さらなる狂気でした。
黒板の文字が脳内に突き刺さってくる、雑音が頭の中をめちゃくちゃにして脳が直接飛び出す感覚がする、24時間悪口や騒音の幻聴が大音量で聞こえ続け、人間の顔はすべて恐ろしい血まみれの悪魔に見え、全世界のすべての物事がわたしを罵倒することばを脳内に直接接続して流してくる、電車に吸い込まれる感覚、自分の名前と存在すら認識しづらくなるほどのひどい記憶喪失と認知機能障害、意味不明なことばを叫べ犯罪を犯せという幻聴、衝動。脳内外からは毒々しい電波が四六時中出入りし、空は黒く世界はぐるぐる回って見え、眼に映るものすべてがわたしの領域に暴力的に侵入して内部を土足で踏み荒らす感覚。
すべてがリアルなのです。想像できませんか。
想像を絶するほどの狂気だったということです。
この頃にはもう電車内や学校で発狂したり突然彼(現在のだんなさん)を罵倒したりなど、意味不明な言動が目立ってきていました。
そしてわたしはまた学校に行けなくなりました。
退学後のようす
あまりにも狂いすぎたわたしは、クリニックの先生も匙を投げるレベルに達していました。
薬が効かなかったのです。
もはや廃人になるのを待つだけと静かに宣告されたと感じました。
将来への展望がすべて断たれたわたしは、圧倒的な絶望感と罪悪感に苛まれては発狂する毎日をおくりました。
その当時、文字をかけるレベルで元気な時に書いた文章をご紹介します。
という理解有能な東京中の人はコーヒーを溢れ地帯に移動し鈍り東そして閉鎖人そして理解から全治を能力し取っ手を滞り…統合から交信店を見せしめ頂、からの連鎖、グル薬は、理解、統合されていく監視状況をそしてまた解除し統合…それは効能、苦々しく樹嘘を道しるべと生きて轍を光狂うのは死ぬことという遠い理解をつぶやくという囁きを理解するという感じを感じ、そして生き…交信…有名な人は世界中の電波的理解を理解し待っている…崩壊を瓦解し理解、病識が病気であるということの病識を正解の世界に発信精神という具体的すぎるほど精神的な成立している精神というふりをするという事実の鳥を返事するという怒りをあらわにして寝るという事実の本当のとりた ち、そして…交信そして交信につぐ精神、理解できる創造たち…有名すぎて生き方に困る東京と京都の間の清澄白河という豊島区ではなくしかしまた効能
何が書いてあるかわかりませんか。
わたしの狂気は、この文章ですら5%もあらわせていないほど強大なものでした。
そして20歳頃になるとわたしは頻繁に叫んだり暴れたりするようになりました。
精神は完全に崩壊していました。
もはや人間とは呼べない「狂人という名の生物」に変容していました。
救急車を呼んだのも、5回や10回ではありません。
警察沙汰になったこともあります。
そしてわたしは成人式の前日に救急車で搬送されたことをきっかけに転院することになりました。
転院後のようす
転院後は、いままでより強い薬を一気に増やされ、あっというまに20キロ近く太り、生理周期はめちゃくちゃになり、からだは意思に反して動き、出血傾向も出て、髪も抜け、過鎮静で動けなくなり、副作用にのたうちまわる毎日でした。
副作用止めも加わり、その当時飲んでいた薬の数は、1日40錠以上にも及びました。
多剤大量処方です。
それでもわたしの発狂はとまりませんでした。
わたしはまたもや先生に匙を投げられてしまいました。
圧倒的な絶望の中、迷惑をかけた人たちに謝罪しながら日々を過ごしました。
大学入学当時の発狂から5年の歳月が流れていました。
担当医が変わる
そしてある日、担当の先生がかわることになりました。
そしてわたしは、病院に通うことすらできなくなりそうな無気力を解決するため、「過去に躁状態になった抗精神病薬を出してくれ、躁状態になってもいいから動きたい」とお願いしました。
先生は不安がりながらもわたしにその薬を処方してくれました。
するとどうでしょう。
いままでどんな薬でも治らなかった発狂と無気力が、2ヶ月ほどで劇的な回復をみせたのです。
これには先生やわたしをはじめ、周囲の人たちみんなが驚きました。
詳しいメカニズムは不明でしたが、「奇跡」がおきたのです。
わたしの20年にわたる病気との「闘い」は、終わりを告げようとしていました。
回復
それからわたしは1年間自主的にリハビリをして、現在の状態まで回復することができました。
そして、過去の病みに病んだ自分を思い返しました。
わたしは、自分が病気であるという事実から逃げて努力しているという事実に甘えていました。
その結果さらに自分を追い詰め、憎しみを増幅させ、「健康」をすり減らし、さらにまた憎しみだけが増幅していき、それは行き場のない狂気に変わる…という悪循環に陥っていました。
努力していることは努力していること、病気は病気、自分は自分。それらを関連付けて勝手に捻じ曲げ、勝手に苦しんでいたのです。
幸せになりたいと「必死」で努力してもどうせ病気に叩き落されるだけなのです。
その事実を明るく受け入れました。
そして、「必死に努力」することをやめ、「緩やかに努力した結果叩き落されることを避ける」という方法にシフトしました。
だからといって過去の自分の選択が悪だったとも思いません。
わたしにとってすべては過程です。
不幸な出来事も、深くものごとを考え、地面に根をはることができるという点では幸福な出来事なのです。人生はまだまだ続くのです。
そしてわたしはもう無理ばかりする生き方をするのはやめました。
無理はしませんが、ベストを尽くすことです。
病気のわたしにとってベストを尽くすということは、がむしゃらにがんばることだけではなく、休むべき時ベストなタイミングで休むことでもあるとおもうので、常にベストだと思う選択をすることです。
つまり、わたしは病気の自分にとって適した生き方を、度重なる再発によって身につけることができ、それは不幸によって自分の人生に根を張ることができたということなのです。
目の前がパッと開けた瞬間でした。
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現在のわたしは、わずかな陰性症状と陽性症状、そして生活障害はのこりましたが、だいたいは普通に暮らすことができています。
ときおり発狂もします。動けないこともよくあります。
ですが、周囲への感謝と配慮を忘れないように気をつけ、自分のペースでのんびり生活しています。
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いかがでしたでしょうか。
わたしが病み始めてから、病気をねじ伏せるため、周囲に認められるために努力を重ね、失敗し、考え方を変えるまでの過程のおはなしでした。
(文中の「狂気」「狂人」などのことばは、統合失調症患者を差別する目的で使用したわけではなく、わたし自身の当時の状態を表すのに最も適切なことばだと判断し、あえて使用しました。
そしてこのおはなしは、すべての統合失調症患者にあてはまる事例ではなく、あくまでわたし個人のおはなしであることも付け加えておきます。)
ではでは、すこしおやすみしてから夕飯を作ってきます(^^)ノシ〜♪