くるんちゅ日記

1991年生まれ、統合失調症、専業主婦。日常を綴ります。

どうも、だんな大好きおのろけ星人です^^

こんばんは、くるんちゅです。

 

 

今日、急に夫にたいする愛を叫びたい衝動にかられ、ツイッターで「のろけていいですか?」とつぶやいたところ、数名のフォロワー様から「聞いてあげるよ!」と言っていただけたので、舞い上がってずーっとのろけていました^^

 

書いているうちに、自分の中だけでずっと一人でただ考えていただけのことが、形になって目の前にあらわれ、さらにいろんな人からの共感まで得ることができる、という、とても「エモい」体験をしました。

 

しかし、わたしのツイッターには鍵がかかっているので、一部の人しか見ることができません。

今回は、この感情をブログのみの読者のみなさまとも共有したいので、その文章をコピペした上で一部改良し公開しようと思います^^

 

では、どうぞ^^

(後でまた加筆修正するかもしれません)

 

 

 

 

 

夫は世間のイメージでは多分「賢くはあるけどなんとなく人当たりが冷たい感じがする」といった感じと思います(実際よくそのように言われる) 。

ですが、わたしの中でのイメージは完全に逆です。

 

 

わたしの中での夫のイメージは、「賢さについてはかなり賢い方と言ってもいいという程度ではあるが、優しさについては、これはもはや才能と言っていい、優しさを体現するためにその賢さや大きな体があるのだと思えるほど」という感じなのです。

 

具体的に解説しますね。

 

 

まず、優しさについて。

 

表面的なことだけ先に述べますと、声質と話し方に優しい雰囲気がある、目の造形と宿す光がやわらかいのに芯がある感じがする(それが最も好ましい要素です)、笑顔がふにゃっとしていて体格がよく全体的な雰囲気がもさもさしておおきく一緒にいると落ち着くような感じがある。

ということなどです。

 

以上を踏まえた上で内面的な要素の解説にすすみます。

 

まず、人をゆるすことができる。

しかし自分の正義を押し殺し表面的に何でもゆるすのではなく自分の中に確固たる基準を設け、ゆるす、恨むの切り替えを正しくできる賢さを持っています。

故にわたしは彼に正当な理由で恨まれるのを逆に喜ばしく思います。

 

 

そして第2に挙げておきたいのが「人間的、知的、理性的なゆるさ、余裕がある」という点です。

彼には少しメタ的というか、やや高次元の離れた地点から事象を「観察、分析」することを好む傾向があります。

それをする、できるのに必要なのはやはり基礎的な教養と鍛錬された知性だと思います。

 

まとめます。

彼はその鍛錬された知性と教養でもって、事象を可能な限り公平なメタ的視点で眺めた上で、(対象が人間の場合は)まず深く共感し、そしてともに歩もうときには共に戦おうとします。

 

実際に「優しさ」を行動や発言する段階まで移行するのは自身の知性と教養に対しある程度自信がないとできないことと思います。

 

先に述べた「余裕」とは単に「行動できる余力」という意味もありますが、言いたいことの核心は「知性を人間的優しさに昇華できる精神的な余裕」があるという事です。

 

これらを先に述べた外面的要素と照らし合わせてさらにまとめると 「彼は、自身の知性と教養に対する自信からくる精神的余裕でもって事象を具に観察、分析する能力と、自分の中の確固たる正義を基準に他人をジャッジしその結論に言動を矛盾なく一致させる自己管理能力の2つを兼ね備えている」

「そして、先の外面的要素は、この内面的要素をわかりやすく表現するための道具に過ぎないが、此れもまた彼を構成する重要な要素であることに違いはない」 となります。

 

 

これがわたしが考える「彼が持つ優しさという才能」の正体です。

 

 

 

次に、賢さについての私見を述べます。

一言で言うと彼は「まあまあの秀才ではあるが、天才ではない」といったところでしょうか。

 

解説します。

先に述べておきますが、わたしの中での秀才の定義は、「圧倒的才能を持ち合わせている訳ではないが、平均的能力は一般的なレベルより上、しかし天才ほどではなく、それを自覚した上で広汎的知識教養によって才能の不足をほぼ完全にカバーできているレベルに達している人物」となり、 それに対し天才の定義は「全ての障害や困難を薙ぎ払えるだけの圧倒的才能を持ち合わせている人物」となります。

 

以上を踏まえた上で、彼はなぜ天才の定義から外れている(と私が個人的に思っている)のか、説明します。

 

そのために、先に彼の知性的欠点を羅列したいと思います。

 

まず、主に日常会話と文章の読み書きにおいて頭の回転が遅く理解力が弱いため、考えることが辛くなるのか思考を軽く放棄したり、その結果早合点したり勘違いすることが多く見受けられます。

 

さらに問題なのは、問題解決に対する基本的スタンスです。

 

「議論」に対して妙なバイアス(問題解決のための議論なのに相手を打ち負かすという目的のすり替えを無意識に行い攻撃的になることがある、対等な立場に相手がいたとしても最初から格下として見ることがある)がかかっている上、さらに、そこに先ほど書いた頭の回転の遅さと理解力の低さという要素が加わって、日常生活での細かい問題解決に向けての話し合いがあまり上手にできない印象があります。  

 

 

以上の点がわたしが主に問題としている欠点ですが、ほかの細かい要素を一応挙げておくと

 

1、思考を言語化するのがあまり得意でないせいと発言に慎重すぎるせいか、最も大事なはずの事を必要な時に口にしない

2、基本的に頑固でプライドが高い傾向があり、たとえ成長と前進の為であっても軌道修正を躊躇うことがやや多く見受けられる

 

と言ったところでしょうか。

以上の「欠点」を踏まえた上でさきほどの「彼がなぜわたしが定義するところの天才でないか」という話題の結論を述べますと、シンプルに「全ての障害や困難を薙ぎ払えるだけの圧倒的才能(ここでは知的才能を指します)と呼ぶには明らかに能力が足りないから」 となります。

 

以上が、最初に述べた「世間での賢く冷たいイメージとは真逆の夫の知性と優しさ、その本質」についての具体的な私見の解説です。

 

さらに戻り、これらを踏まえた上で「最終的になにをどうのろけたいのか」、核心に向けて話を進めていこうと思います。

 

わたしは基本的に、個人的な好みとして「自分よりもあらゆる意味で賢く優しい」人が性別問わずタイプです。

 

理由は、シンプルに「憧れられるから」です。 そんな人とただ共に生を生きる。

 

これ以上贅沢な人生ってありますか?

 

 

完全に賢く優しくなくていいのです。

むしろ完全ではないほうがいいのです。

完全というのは、もうこれ以上成長しないという事と同義です。

そうなると、わたしは、個人的な精神的脆さ、愚かさのためその人を「崇拝」する領域に入ると思われます。

 

それはもはや「盲信」という名の思考停止であり、「共に生きる」ことではありません。

 

もう何が言いたいかなんとなくおわかりかと思いますが、

「不完全な優しさと知性の器である不安定な自己=夫、に憧れる、これもまた別の不完全な自己=わたし、共に互いを感化しながら生を生きていきたい」

「そしてそれが、わたしが現実の存在を生きる中で見つけた、自らの生が目指すべき目標のうちの一つである。」

「だから夫と一緒にいたい。それが愛と、わたしは考える。」

 

となります。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

ここまでが引用です。

 

では、休日出勤していた夫が帰ってくるので、夕飯の支度をしてきますね〜^^

 

 

マタネ(^0^)ノ

 

 

 

 

 

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