くるんちゅ日記

1991年生まれ、統合失調症、専業主婦。日常を綴ります。

わたしが発症したときのこと のつづき(思春期の統合失調症)

こんばんは、くるんちゅです。

 

 

ちょっと前にわたしはこんな記事を書きました。

 

kurunchu.hatenablog.com

 

公開するのにとてもおおきな勇気が必要な記事でした。なぜなら、病状がかなり克明にしるされているからです。

わたしは、病気であることについて、色々なことを色々な人に言われて育ちましたので(人はこれを差別と呼ぶのかもしれませんが、そのような単純な話ではございませんのでそれについてのわたしの考えはあとでお話します)、自分の病気や感情についての生々しい話をすることを無意識に避けていたのです。

 

 

しかし、いただいた反響はあたたかいものでした。

 

 

つづきを読みたいというかた、へーと思って読んだというかた…。星もたくさんいただきました。

 

 

ですので、これからつづきをおはなししようとおもいます。

前回よりさらに暗いおはなしになってしまいますので、一応閲覧注意です。

 

 

 

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公立の中学校に進学

小学六年生、限界がちかづいてきたわたしに、さらに追い討ちをかけるできごとがおこりました。

 

父親が突然家族に何も言わずに仕事を辞め、わたしたちの教育費に手をつけて、多額の借金までして突然自営業をはじめたのです。

 

 

経済的におおきく傾いた我が家。わたしは受験を諦めざるをえなくなり、地元の公立中学校に進学しました。

気が狂っても何があっても努力し続けついに叶いそうになった、名門中学校への夢は無残に断たれました。生活のランクもおおきく落ち、学校ではへんな噂を流されました。

 

わたしの努力はすべて水の泡となり、そして、努力の代償として貧しい暮らしといじめが待っていました。

 

 

この頃にはもう、世界はななめに見え音はねじれて聞こえ、ストレスで吐きすぎて学校のトイレで吐血し、過食も始まり、自傷行為(無意識につめで親指をひっかく)も悪化し、おそろしいほどの頭痛でまた吐きながら命がけで学校に通う状態でした。

 

神経は異様に研ぎ澄まされ、ひとの言動がきになる。たとえば、ひとりの生徒がわたしと目があった、とたん、「こいつはわたしを殺そうとしている」という異常なこじつけ思考に陥りはじめました。被害妄想がじわじわ始まっていました。

 

 

そして2学期、ついにわたしは突然学校に行けなくなりました。

 

 

 

 

不登校と通院

 

それまでずっと優等生だったわたしがとつぜん不登校になったことで、わずかな友達はきになってわたしの家を訪問しました。

そして、手紙もいただきましたが、もはや狂ったわたしに文字を読む能力はほとんど残されていませんでした。

 

 

毎日毎日、第一志望の中学にも行けず、公立中学へも通うことができなくなった状況を嘆きながら過ごしましたが、だんだん統合失調症の兆候があらわれはじめ、意識が侵食されていきました。

 

奇声をあげる、暴れる、昼夜逆転、呼吸すらたいへんなほどの無気力、偏りすぎた思考、ひとを異常におそれ引きこもり部屋からほとんど出なくなり身なりに気を使わなくなる、など、人間らしい生活ができなくなってきました。

 

見た目には生活する能力がじょじょに落ち、それに狂気がまじっている、という感じでした。しかし当時考えていたことはあまり覚えていません。なぜなら、感情のほとんどが言語化できない狂気に占められていたからです。

 

苦しい気持ちはもちろんありましたが、自分を病気だとは思っていませんでした。わたしにとって、おかしいのは「世界」だったのです。そう確信していたのです。(これを病識がない、といい、統合失調症の症状のひとつであり、治療を妨げるおおきな原因のひとつでもあります。)

 

 

 

 

 

そして母はいくつかの病院をまわり、わたしは「アスペルガー症候群にともなううつ病」と診断されました。

 

 

そして抗うつ剤睡眠薬抗不安薬の投与がはじまりましたが、副作用ばかりで効果はまったくあらわれず、治療は難航しました。

それもそのはず、わたしはアスペルガーでもうつでもなく、統合失調症だったからです。

 

副作用で35キロ太り、ついにわたしはまったく外に出ることができなくなりました。

 

 

毎日、やせていて誰よりも勉強や運動ができたころのわたしをおもっては絶望感からまた気が狂い薬を飲み、苦しむことを繰り返しました。

 

もがき苦しむ、ということばがありますが、わたしにはもがく元気すらありませんでした。そこにはただひたすらの狂気と圧倒的な絶望、そしてうごかない太りきった塊だけがありました。

 

 

 

高校受験

絶望の中日々を過ごし、わたしは中学三年生になりました。

勉強は当然ながら遅れていて、出席日数もたりずあまりよい高校に行けないのは確定でしたが、高校を踏み台にして大学でリベンジしよう、と思い立ち、ふたたび勉強をはじめることにしました。

 

まず、行きたい高校を探すために、学校見学に行くことにしました。

 

 

しかし、わたしは部屋からでることすらままならない状態にまでなってしまっていました。

外にでるためには、部屋から出なければならなず、部屋からでることもままならないわたしはまず部屋からでる訓練をはじめました。そしてついに外に出ることができました。

 

 

久しぶりの外は、眩しすぎてめまいがしました。皮膚がじりじり焼かれ、靴の裏を変形させるアスファルトのでこぼこが気持ち悪くてわたしはしゃがみこみました。

 

外に出られたら、次は立つ練習、その次は歩く練習、と、少しずつわたしはステップアップしました。

 

いまはなにもできなくても絶対にあきらめるものか、と思いました。

もはや怒りにも似た、元優等生という醜いプライドからくる向上心だけがわたしを突き動かしていました。

 

 

高校受験まで一ヶ月を切り、ようやくわたしは志望校(地元の定時制高校)を定め、勉強をはじめました。

そしてわたしはわずか3週間で中学3年分の勉強をすべてマスターし、進学校である全日制の生徒たちよりもよい成績で高校に入学しました。給付型の奨学金も(多くはありませんが)ゲットしました。

 

怒涛の快進撃がはじまりました。しかし、それは同時に躁状態のはじまり、でもあったのです。

 

 

高校時代

高校は、ひとことでいうととても居心地のよいところでした。

いろいろな事情を抱えた生徒たちが、まさに「自由な青春」を過ごす、そんな場所でした。

 

そして貧しいわたしは大学に行くために勉強するための費用を貯めるため、アルバイトをはじめました。

 

バイトが終わったら走って高校に行き、授業が終わって家に帰ったら勉強し、土日もバイト…

睡眠は2日に1回程度で十分たりている。そう感じていました。

 

 

努力は楽しかったです。プライドからくるガリ勉ではなく、わすれかけていた純粋な知識欲からくる勉強、をしている実感がありました。

 

 

毎日が、たのしくて仕方ありませんでした。なんで楽しいのかもわからず、ただ楽しくて、眠れなくて、まわり続けるメリーゴーランドに酔っているような日々でした。

 

 

 

そしてわたしには夢ができました。

 

教師になることでした。

 

不登校や自殺未遂やうつ病アスペルガー症候群などの逆境をのりこえた経験を誰かの人生の役に立てたい、純粋な勉強のたのしさを伝えたい、誰かの人生の一部に学校のたのしさを刻んであげたい。つらい気持ちでいる子供達に寄り添って、気がすむまで話を聞いてあげ、前を向いてほしい。そう思っていました。

 

 

いてもたってもいられなくなったわたしは、四年制の定時制高校を三年で卒業できる試験に一発合格し、すぐに大学受験の勉強を始めました。目指すは、都内の某国立大学の教育学部です。

 

わたしは貪欲でした。参考書を買うお金がなければ廃盤になった教科書を学校からもらってきて、自分で参考書をつくり机にかじりつくようにして勉強しました。

わたしの心には、どんな難問でもかかってこいという挑戦的な、だけど不安が入り混じった、だけど楽しい…そんな浮遊した奇妙な高揚感がありました。

 

いま思えばあれは、まぎれもない躁状態でした。

 

 

成績は上がり続け、二年生の頃には安全圏に入りました。

わたしはそれで手を抜くことなく勉強し続け、ますます気分は高揚し、不安感もつよくなっていきました。

 

このままわたしはどこへ行ってしまうんだろう。ふと思いました。

 

 

わたしのこころにふたたび暗い影がさしはじめました。

 

 

診断

三年生の夏、わたしはスランプに陥っていました。体調をくずしがちになり、思うように成績をキープできなくなっていったのです。

 

そのころから、人の視線が異様に気になりはじめ、「漠然とこころが壊れそう、わたしの世界が崩壊する」「精神が分裂する」という奇妙な感覚におそわれぼーっとすることが増えていきました。

 

成績は坂道を転げ落ちるように下降していき、またたくまに偏差値は半分になってしまいました。

 

 

そして、ついにわたしは再び発狂しました。

襲い来る幻聴、幻覚、奇妙な感覚、妄想、焦燥感、無気力、異常な緊張…

 

 

そして今度は自分から精神科に行き、ついに「統合失調症」と診断されました。

 

 

なぜか、わたしはすとんと「統合失調症、一生治らない」という言葉を受け入れました。ですが、心は暗闇でした。

 

「大学へは通える、卒業できる」という当時の主治医の言葉を信じ、志望校を下げることにはなりましたが投薬によって偏差値は60台後半まで回復し、某理系大学に合格することができました。

 

 

不安を訴えると、主治医が医学部に入るまえに通っていた大学ということもあり、医者で先輩の俺が安心していいよっていうなら安心して通っていいんだよ、とのことでした。

 

 

あとは、奨学金をもらって通うだけでしたが、わたしのこころには不安しかありませんでした。

 

 

そしてわたしはその大学に入学しました。

 

 

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このあと、わたしは人生最悪の再発を経験し、性格におおきな変化があらわれはじめることになるのですが、そのおはなしは、またの機会に。

 

 

 

かなり感情的な文章になってしまったので、あとで修正するかもしれません。

 

 

ではでは、今日はここまでで♪(^^)ノシ